フォーヴと墨のあいだで、日本の絵画に革命をもたらした孤高の革新者
萬鉄五郎(よろず てつごろう)は、大正から昭和初期にかけて活躍した先駆的洋画家であり、日本にフォーヴィスムやキュビスムを導入した“前衛の魁”として、近代美術史に確かな足跡を残しました。
西洋の美術運動を吸収しつつ、自身の内面に即した表現を追い求め、やがて日本画の伝統とも接続しながら、独自の精神世界を描き出したその軌跡は、今なお異彩を放ち続けています。
その筆は、時代の最先端を駆け抜けながらも、常に“自分の絵”に向き合った、誠実な探求の証しでもありました。
1885年、岩手県東和賀郡東和町土沢(現・花巻市)に生まれる。幼少期から水墨画に親しみ、16歳から水彩画を独学。1903年に上京し早稲田中学で学ぶ傍ら、画家としての道を志す。
1906年には禅僧らとともに渡米し、帰国後の1907年に東京美術学校西洋画科へ入学。1912年に卒業し、その卒業制作《裸体美人》(のちに重要文化財)が注目を集め、画家として華々しいスタートを切る。
同年には岸田劉生、高村光太郎らとともに「フュウザン会」を結成し、後期印象派やフォーヴィスム、キュビスムといった西洋の最新潮流を積極的に取り入れた。
1914年、故郷・土沢に戻り制作に専念。多視点構成や形態の簡略化、モノクローム的表現などを探究する。
1917年に再上京し旺盛に制作を続けるが、1919年に神経症と結核を発症し、療養のため神奈川県茅ヶ崎へ転居。以後は南画(日本の水墨画)を学び、東洋と西洋の融合を志向する新たな画風へと移行。
1927年、41歳の若さで逝去。
萬鉄五郎の作風は、時期によって劇的に変化する実験精神に満ちています。
初期にはフィンセント・ファン・ゴッホやアンリ・マティスの影響が色濃く、フォーヴィスム的な強烈な色彩と粗く力強い筆致が特徴的です。
中期(岩手・土沢時代)は、キュビスムの影響を受けた幾何的な構成と形態の単純化を試み、より内省的な作品群が展開されます。
晩年の茅ヶ崎時代には、墨と余白を活かした南画の構成や精神性を自身の洋画に融合し、東西の絵画美学を越境する独自表現に至ります。
「色彩の激しさ」から「構成の沈黙」へ。
その軌跡には、表現の進化とともに、絵と生を一体化させようとした画家の姿勢が滲んでいます。
●《裸体美人》(1912年)
東京美術学校卒業制作にして画壇に衝撃を与えた代表作。野趣あふれる色彩と構図で、女性像を強烈に描き切った。
●《軽業師》(1912年頃)
サーカスの人物像を大胆なフォルムと配置で表現。初期のフォーヴィスム的試みに満ちた実験作。
●《もたれて立つ人》(1917年)
岩手・土沢時代の作品。画面構成の大胆さと人物の静謐さが同居する、転換期の象徴的作品。
●《丘のみち》(1918年)
単純化された構図の中に、風景の静かな精神性が滲む。後の日本的モダニズムの萌芽を感じさせる。
●《松林》《湘南風景・茅ヶ崎》
晩年の茅ヶ崎時代の代表作。水墨的な処理と東洋的構成によって、独特の気配が画面に漂う。
萬鉄五郎の作品は、重要文化財指定作品を含むため流通数は極めて限られており、現存真筆の希少性から非常に高額で取引される傾向があります。
⚫︎油彩作品(1910年代~1920年代前半):1,000万円~数億円規模
⚫︎水彩・素描:数百万~2,000万円程度(来歴・発表歴により変動)
⚫︎模写・参考作品:学術的資料価値を伴えば数百万円級
特に初期フォーヴ風表現や土沢期の幾何的作品、茅ヶ崎期の墨画的表現は、研究者・美術館ともに評価が高く、今後も美術史的価値に伴って市場評価が上昇する可能性があります。
以下のような特徴を持つ作品が特に注目されています。
⚫︎《裸体美人》以降の初期モダニズム絵画(1910年代)
⚫︎土沢時代のキュビスム的構成をもつ油彩作品
⚫︎茅ヶ崎時代の墨画風油彩、小品風景画
⚫︎「フュウザン会」参加歴・展覧会資料と紐づく作品群
⚫︎署名・裏書・出品記録などが明確な作例
真贋の判定が極めて重要な画家であるため、専門鑑定機関との連携が不可欠です。
萬鉄五郎の絵には、西洋絵画に学びながらも、それにとどまらずに超えようとした強い意志が込められています。
彼の試みは、単なる技法の輸入ではなく、日本人の感性と精神性に根ざした“新しい絵画”の創出でした。
短命ながら、その遺した作品と思想は、日本美術の歴史に確かな革新の痕跡を刻んでいます。
ご自宅やご実家に萬鉄五郎の作品、あるいは画稿・資料などをご所蔵の方は、ぜひ専門家による鑑定をご検討ください。
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